MMM Returnsの元となったMMMとはどんな組織なのか

※このエントリーの内容は、Sergei Mavrodi氏とMMM Returnsのつながりに関して言及しているものではありません。

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※随時更新中

MMMの概要

MMMは1990年台に世界史上最大のポンジスキームを構成したロシアの会社である。さまざまな調査データがあるが、MMMによって500~4000万人の参加者が少なくとも10億ドルを失ったと言われている。正確な参加人数や被害額は、出資を行っていた者にもわかっていない。

 

MMMの再興

2011年にMMMは世界110ヶ国に子会社を持つ"MMM Global"として再始動した。MMM Globalは南アフリカ共和国、ナイジェリア、ジンバブエ、ケニヤ、ガーナといった貧困問題や政府・法律による規制の脆弱性を抱えるアフリカ各国で人気を博し、広く普及した。

 

2017年、RCCG(ナイジェリアのキリスト教団体)は、RCCGの牧師の中にMMM Globalが参入する1年以上前からMMMの推進を計画していた者がいると言われていたことから、メンバー全員にMMMへの参加に対して警告を行った。2016年12月にMMMが崩壊したという報道があると、2017年1月までにナイジェリアでは従来からのものに加えてさらに多くのポンジスキームが登場した。

 

新しいポンジスキームはMMMの模倣者で、莫大な金利を謳い文句にMMMナイジェリアを凌ぎ、ナイジェリアのポンジスキーム界隈は加速度的に大きくなっている。2017年3月に、世界全体に広まっていたMMMによる同様のポンジスキームが破綻した。

 

MMMの歴史(随時更新中)

ロシア

MMMの設立と初期の事業

MMMは Sergei Mavrodiとその弟のVyacheslav Mavrodi、そして Olga Melnikovaという3人の人物によって1989年に設立された。MMMという会社名は、この3人の名前の頭文字を取って名付けられた。

 

MMMは最初の頃、コンピューターやオフィス機器の輸入を行っていた。1992年、ロシアの税務警察はMMMの脱税を訴えたことで銀行からの資金調達が困難になった。貿易事業の継続が難しくなったので、MMMは事業を金融部門へと転換した。

 

同社はアメリカの株式をロシアの投資家に紹介したが、全くと言って良いほど成功しなかった。その後、国営企業の民営化に関連して保証人を募る目的でMMM-Investを設立したが、この試みも同様に失敗に終わる。

 

ポンジスキームの発展

 MMMは1994年からポンジスキームを立ち上げ、年間1,000%の収益を謳うことで民間投資家から多額の出資を受けた*1。1994年2月にはテレビでCMを放映するなどの大々的なプロモーションを行った結果、MMMはここから急速な発展を見せる。

 

MMMの株式は非上場で、同社自身が株価を決定していたため、毎年数千パーセントの安定した価格上昇を維持することで、同社の株は安全で収益性の高い投資であると投資家や民衆に信じ込ませていた。

 

▼MMMの株式引換券

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出所:http://www.a-saida.jp/russ/chronology/chronol_deh_obr.htm#kapitalizatsija

 

広告戦略の成功

 MMMによるポンジスキームが多額の出資を集めた重要な要因として「口の巧さ」が挙げられるのだが、Vladimir Permyakov演じる"Lyonya Golubkov"という「平凡な人物」のキャラクターを「みんなの英雄」として印象づけることで、一般市民に向けての広告戦略が成功したという側面も大きい。

 

▼MMMによるCM集

www.youtube.com

さらに特筆すべきマーケティング戦略は、地下鉄の無料チケットをモスクワ市民に配布したというものである。MMMはロシアで有名になった最初の企業の1つであり、会社のロゴや「闇から光へ飛び込もう」というスローガンも広く認知された。

 

部屋単位でお金を数える

ピーク時、MMMは株式の売上から毎日1000億ルーブルを借り入れていた。そのため、モスクワの事務所では売上の紙幣が膨大な量となり、数え切れなくなってしまった。そのとき経営陣は「1部屋分」「2部屋分」などと、お金を部屋単位で数えていたと言われている。

 

株価発表の規制

報道機関によるMMM株価の発表があまりにも過熱したため、1995年6月、時の大統領ボリス・エリツィンは金融機関に対し、期待収益の公表を禁止する通達を行った。

 

MMMに続く高収益の投資が流行

投資家を集めるという点で成功を収めたMMMに習い、高期待利回りを掲げて積極的にテレビコマーシャルを放映する会社が次々と現れた。年間30,000%もの収益を出すと謳っていた会社もあった。

 

脱税による摘発

1994年7月22日、警察は脱税を理由にMMMのオフィスを閉鎖した。同社は数日後に事業のスキームを維持するために活動を継続しようとしたが、すぐに事業を停止した。その時点で、MMMの子会社の1つであるInvest-Consultingは2,600万ドルに及ぶ税金支払の必要性があり、さらに投資家に対しても5,000万~1.5億ドルに及ぶ支払いを抱えていた。この余波で、少なくとも50人の投資家が全財産を失って自殺した。

 

倒産後のMMMとSergeiの議会進出

MMMの被害者団体は、被った損失を取り返すために奮闘していたが、Sergeiは彼らの怒りの矛先を政府に向けるよう仕向けた。1994年8月にSergeiは脱税で逮捕されたが、免責特権を受けるために選挙に出て下院への当選を果たす。

 

選挙の際にSergeiは、MMMではなく政府が彼らの損失を補填する義務があると主張し、返済プログラムを立ち上げることを約束して被害者団体からの支援を受けた。しかしながら、最終的に被害者に支払われたのは損失金額に比べてごくわずかな金額だった。

 

MMMの倒産

1995年10月、議会はSergeiの議員としての免責特権を取り消した。1996年、彼はロシアの大統領選に出馬しようとしたが、署名は拒否され、MMMも1997年に倒産を発表した。

 

Sergeiはその後、姿をくらます。その間、ロシアを離れてアメリカに移り住んだと考えられていたが、元特殊部隊のグループを雇いながら、定期的にアパートを変えてモスクワに滞在していた可能性も指摘されていた。

 

Sergeiの罪

2003年に発見されて逮捕されると、Sergeiには1巻200数十ページに及ぶ詐欺事件の資料が650巻も渡され、その確認のために2006年1月まで勾留されていた。2007年4月の終わりに彼は詐欺の罪で有罪判決を受けたが、既に4年以上に渡って勾留されていたため、有罪判決から1ヶ月足らずで釈放された。

 

MMMによる一連の事件によってロシアの株式市場は規制の強化を余儀なくされたが、人々はMMMによる詐欺事件の教訓を活かし、株式投資には慎重になった。

 

 

参考:MMM (Ponzi scheme company) - Wikipedia

(現段階では基本的に翻訳の内容中心ですが、今後筆者の見解やその他の情報も付け加える予定です。)

*1:当時のロシアは、ハイパーインフレによって輸出入などの事業においてはこのような超高利子の配当を出すことは可能であったかもしれないため、Mavrodiが元からポンジスキームを形成しようとしていたかどうかは不透明な部分がある。